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710年、現在の奈良県に新しい都である( )がつくられました。( )に当てはまるものを選んでください。
- 平安京
- 平城京
- 長安

条坊制
条坊
平城京の街は、縦と横に広がる道路によって区切られていました。 縦の道路( 「条」)と横の区画(「坊」)によって平城京の街は縦横に分けられた大きな「格子」のようになっています。 その結果、街が整然として、誰でも迷わず移動できるようになっています。
723年に、政府が開墾を奨励するために出した法令。人口の増加によって口分田(くぶんでん)が不足してきたため、新しく用水をつくって土地を開墾(かいこん)した人には三代の間、もとの用水を利用したものには本人1代にかぎり、開墾地の私有をみとめることにしました。
聖武天皇
聖武
仏教を深く信仰して、全国に国分寺と国分尼寺をつくり、都には東大寺、大仏をつくったことでも有名です。
天平文化
天平
天〇文化は、聖武天皇の在位期間(729年~749年)に栄えた奈良時代の文化で、唐(当時の中国)の影響を強く受けていた仏教文化です。天平文化は国際色豊かで、貴族を中心とした華やかな文化が特徴です。 ・国史や地誌の編纂、漢詩文や和歌がさかんだった ・鎮護国家の思想(仏教の力で国を守るという考えかた)により、国家仏教が発展し、僧侶が活躍した ・仏教の影響を受けて社会事業がおこなわれた ・万葉集や古事記といった歌集や歴史書などの文学作品が多く生まれた
東大寺の大仏は、正式名称を「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」といい、日本を代表するお寺のひとつである<東大寺の本尊>です。 東大寺は、聖武天皇が仏教の教えを中心にして、国を守るために建てたお寺です。 大仏の高さは約15メートルで、お釈迦様の身長を10倍したことで無限大の宇宙を表現していると考えられています。 耳の長さは約2.5メートル、目の幅は約1メートルと巨大です。全体が銅でできており、中は空洞の骨組みになっています。
平安京は、794年から1869(明治2)年まで都として機能した都市で、現在の京都市にあたります。 桓武天皇が律令政治の再建を目的に、平城京から長岡京を経て京都に遷都した都市。東西約4.6km、南北約5.3kmの長方形の都市で、碁盤(ごばん)の目のような町づくりが行われました。
遣唐使(けんとうし)は、7世紀初めに日本から唐(現在の中国)へ派遣された使節団で、日本の政治や文化の発展に大きな影響を与えました。しかし、9世紀末に菅原道真の提案により廃止されました。その理由としては、次のようなことが考えられます。 ・唐の国力が衰え、遣唐使を派遣する意味が薄まった ・唐文化が日本に十分に取り入れられていた ・航海技術が乏しく、無事に行って帰ってくることが難しい 遣唐使が廃止された後は、日本独自の新しい文化「国風文化」が生まれ始めました。
源氏物語は、平安時代中期に<紫式部>によって書かれた長編物語で、主人公の光源氏の生涯と恋模様、その息子である薫の成長を描いています。光源氏の年齢や環境の変化によって大きく3部構成に分かれており、当時の貴族社会や風習が生き生きと描かれています。
平安時代の貴族の女性が着ていた<十二単>は、服の重ね着の枚数が12枚だったことに由来しています。でも、実際には12枚以上の服を重ねて着ていることが多かったそうです。重なって着る服は、1枚1枚が色や素材が違っていました。それらの色や素材の組み合わせが大事で、その時々の流行や、着る人の身分によって、どんな色を選ぶかが決まっていました。
浄土信仰は、阿弥陀仏の救いを信じて、死後に極楽浄土に生まれることを願う信仰です。浄土信仰の教えは、中国で発展し、平安時代後期に日本でも広まりました。 浄土信仰が広まった背景には、10世紀中ごろから世の中が乱れ、人々が不安な気持ちを持っていたことが挙げられます。 浄土信仰を広めた人物には、空也(くうや)と源信(げんしん)がいます。空也は京の市中で浄土教を広めたため、市聖(いちのひじり)とも呼ばれました。源信は『往生要集(おうじょうようしゅう)』を著しています。
清少納言
清少納言(せいしょうなごん)は、平安時代中期の女流作家で、代表的な歌人・随筆家として知られています。世界最古の随筆とされる『枕草子』の作者として知られています。「いとをかし」という単語が象徴する季節や自然、宮廷の華やかな日常を、豊かな感性と鋭い観察眼でつづっています。
平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)は、京都府宇治市にある寺院平等院の一部で、平安時代後期に建てられた阿弥陀堂です。 極楽浄土を思わせる寝殿造りの建物で、正面から見ると翼を広げた鳥のように見えることから「鳳凰堂」と呼ばれています。
摂関政治
摂関
「摂政(せっしょう)」や「関白(かんぱく)」という役職を持つ人物が行った政治です。摂政や関白は、若い天皇や女性天皇の代わりに政治を行う役目を持っていました。 この政治の仕組みは、平安時代の中期(およそ10世紀)に始まり、特に藤原氏が強い力を持っていました。藤原氏は摂関政治を通じて、長い間日本の政治を支配しました。その結果、天皇の力が弱まっていきました。
国司は、日本の各国を管理する大事な役職の人たちで、税金を集めたり、治安を守ったりして、地方を支配していました。中央政府から任命される貴族が多かったです。今で言う市長や県知事のような役割に似ていますが、国司はもっと昔の時代に、広い地域を管理していた人たちです。
大和絵
大和
大和絵(やまとえ)は、平安時代中期に日本独自の自然や風俗を題材とした絵画様式で、次のような特徴があります。代表作には、「源氏物語絵巻」、「信貴山縁起絵巻」、「鳥獣戯画」などがあります。
平将門の乱は、平安時代初期の935年から940年にかけて関東で起こった反乱です。桓武天皇の流れをくむ平氏の一族である平将門が、一族との争いをきっかけに反乱を起こしました。 ・平将門は、一族同士の所領争いを勝ち抜いて関東の最大勢力となりました。 ・常陸、下野、上野の国府を攻めて自ら「新皇」を称し、関東を独立国家にしようとしました。 ・藤原秀郷や平貞盛ら地方の武士によって敗北しました。
平安時代の日本では、天皇が一番上の位にありましたが、天皇が若いときや、年齢が高くなったときには、政治をするのがむずかしいことがありました。そこで、天皇が直接政治を行う代わりに、上皇(じょうこう)が政治を行ったことを、「院政」と呼びます。 上皇は、天皇の位をゆずった人のこと―引退した天皇のことです。例えば、白河上皇(しらかわじょうこう)が院政を始めたことで有名です。白河上皇は、引退後も天皇よりも強い力を持って政治を行っていました。院政は、平安時代の後半に始まりましたが、後に武士の力が強くなると、その影響力は少なくなっていきました。