問題 1
OX
東郷平八郎は日本海海戦でロシア海軍に勝利しました。
東郷平八郎(1847〜1934)は、明治・大正時代の海軍軍人です。薩摩藩(いまの鹿児島県)の出身でした。幕末の薩英戦争に参し、明治維新後は海軍に入りました。 日清戦争では軍艦「浪速(なにわ)」の艦長として出撃しました。 日露戦争では連合艦隊司令長官として海軍を指揮し、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に対して圧倒的勝利を得ました。

東郷平八郎(1847〜1934)は、明治・大正時代の海軍軍人です。薩摩藩(いまの鹿児島県)の出身でした。幕末の薩英戦争に参し、明治維新後は海軍に入りました。 日清戦争では軍艦「浪速(なにわ)」の艦長として出撃しました。 日露戦争では連合艦隊司令長官として海軍を指揮し、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に対して圧倒的勝利を得ました。
1895(明治28)年、ロシア・ドイツ・フランスが、「日清戦争で日本が領有した遼東半島(りゃおとんはんとう)を清(中国)に返せ」と要求しました(三国干渉)。日本は、まだこれらの国に対抗する国力がないと考え、要求を受け入れ、清に遼東半島を返しました。 日本は代償として約4,500万円を手に入れました。
小村寿太郎
小◯◯◯◯は、第1次桂内閣の外務大臣として日英同盟をむすび(1902年)、日露戦争では講和会議の全権となってポーツマス条約に調印しました(1905年)。その後小◯◯太◯は、イギリス駐在公使をへて第2次桂内閣の外務大臣となり、1910(明治43)年に韓国併合を行って朝鮮を日本の植民地としました。そして1911年には、小◯◯太郎は、関税自主権の回復に成功し,念願の条約改正を実現したのです。
明治時代は、日本が工業を始めた時代です。当時の日本人は、何を作れば海外にも売れるか考えました。そして、外国に売れる高級な布や糸に注目しました。 鉄鋼と石油は明治時代の後半から発展しました。木材と紙も大事でしたが、特に重要だったのは輸出に向いているもの(軽くて運びやすいもの)です。
1886(明治19)年、紀州沖で、イギリスの貨物船ノルマントン号が難破したとき、ドレーク船長とイギリス船員26人は救命ボートに乗りうつって救助されました。しかし日本人乗客25人は、船中にのこされ水死してしまいます。事件について裁いたのは、イギリスの領事でした。日本は条約で、イギリスに領事裁判権を認めていたためです。結局、この事件にかかわったイギリス人の全員の無罪が決定します(再審で船長だけ禁錮3か月)。このことは、日本国民をとてもふんがいさせたのです。
連合国
日本がこの戦争に参加したのは、イギリスとの約束を守るためでした(日英同盟)。 イギリスは連合国の一員でした。
自分の土地を売ってしまったあと、<地主>から農地を借りて、農作物をつくる農民になりました。 かれらは、農地の使用料(小作料)として、とれた農作物の一部または現金を地主におさめました。
吉野作造
野、造
田中正造
田〇〇〇は、栃木県生まれ。自由民権運動で活躍し、1890(明治23)年の第1回総選挙で衆議院議員に当選しました(その後6回当選しています)。田〇〇造は、第2回帝国議会で足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)の解決を政府せいふにせまりました。また、議会の内外で鉱毒問題の解決かいのためにつくしました。田中〇造は、1901年に議員をやめ、銅山の営業停止を明治天皇に直接うったえました。
1918(大正7)〜1922年に行われたロシア革命に対する国際的干渉戦争です。第一次世界大戦中にロシア軍の捕虜(ほりょ)となったチェコ兵を救う口実で、革命政府を打倒する目的でアメリカ合衆国・イギリス・フランス・日本がシベリアに出兵しました。革命軍の反撃にあい、日本をのぞく3国は1920年に撤兵しましたが、日本は1922年まで干渉をつづけました。
第一次世界大戦によって日本は好景気になり、大もうけした成金が登場した反面、物価もうなぎのぼりに上がったため、労働者の生活は苦しくなりました。1918年には、シベリア出兵などで政府が米を買いいれ、米商人の買いしめや売りおしみで米価が戦前の4倍にもなりました。そんな状況の中、1918年7月、富山県魚津(うおづ)の漁村の主婦たちがたまりかねて米屋におしかけ、安売りを要求しました。これをきっかけに騒動はたちまち全国に広がり、各地で群衆が米商人や大商人などをおそう暴動が2か月近くも続きました。政府は警察や軍隊を出動させ、安い外国米を輸入するなどして騒動をしずめました。
1915(大正4)年、日本が中華民国政府につきつけた21か条の要求。第一次世界大戦で西洋列国が中国から撤退したのを利用して、むりやりに山東省・満州(今の中国東北区)・内モンゴルなどでの日本の利権をみとめさせました。この結果、中国人の間に反日運動がさかんになりました。
1919年6月、連合国とドイツがむすんだ第一次世界大戦の講和条約です。パリ講和会議で草案が作成され、ベルサイユ宮殿で調印されました。 この条約によって、ドイツは本国の一部(アルザス・ロレーヌなど)とすべての植民地を失い、軍備は制限され、多額の賠償金を支払うことになりました。日本は山東省でのドイツの権益を受けつぎ、委任統治領として旧ドイツ領南洋諸島を手にしました。 ベルサイユ条約のほか連合国は敗戦国と個別に講和条約をむすび,これらの条約によってつくりだされた第一次世界大戦後の国際秩序を「ベルサイユ体制」という。
国際連盟は1920年、第一次世界大戦の反省をもとに、世界の平和と国際協力を目的にして発足した世界初の国際的な平和機構です。アメリカは国内の議会で反対を受けたため加盟しませんでした。 1933年には日本・ドイツが脱退したり、全会一致制をとるためなかなか、ものごとを決定できいなどの弱点があったりして、侵略戦争を防げませんでした。
1919年5月4日、中国の北京に始まった民族運動です。中国革命の出発点となりました。日本の中国に対する二十一か条の要求がパリ講和会議でみとめられたことに抗議する学生3000人が反対デモを行いました。しかし政府がこれを弾圧したため、全国的な運動に拡大しました。政府は逮捕した学生を釈放し、講和条約の調印拒否を声明して事態をおさめました。
原敬
〇敬(〇〇たかし)は、岩手県盛岡市出身で、新聞記者を経て外務省に入省しました。1900年に立憲政友会を創立し、1914年に総裁に就任しました。1918年に寺内正毅内閣が米騒動で退陣したのち、立憲政友会を中心とした内閣を組織しました。華族出身ではなく、盛岡藩出身だったため「平民宰相(へいみんさいしょう)」と呼ばれました。交通機関整備や教育奨励、産業貿易振興、国防充実などの四大政綱を掲げ、積極的な政策をとりました。社会主義運動を弾圧したり、普通選挙法を拒否したりする強硬な政策を展開したため東京駅で刺殺されました。在任中に死去した初めての総理でもあります。