問題 1
短答式
関ヶ原の戦いが起きたのは、◯◯◯◯年です。
(数字4文字)
1600年
1600
関ヶ原の戦いは、1600年(慶長5年)に美濃国(岐阜県)の関ヶ原で行われた、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍の戦いでした。この戦いは「天下分け目の戦い」とも呼ばれ、戦国時代を終焉させ、その後の日本の支配者を決定付けた戦いとして知られています。

1600年
1600
関ヶ原の戦いは、1600年(慶長5年)に美濃国(岐阜県)の関ヶ原で行われた、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍の戦いでした。この戦いは「天下分け目の戦い」とも呼ばれ、戦国時代を終焉させ、その後の日本の支配者を決定付けた戦いとして知られています。
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、幕府の代表者で、略して「将軍」とも呼ばれる職名です。 征夷大将軍は、朝廷から任命され、天皇の軍事代行として蝦夷(朝廷に従わなかった人たち)を征討する役割を担っていました。 征夷大将軍は、平安時代中期に朝廷が東北地方を平定した後は、武家政治を行う者にあたえられました。 鎌倉時代以降は、武士の頂点に立つ人物が任命され、日本の政治の頂点を意味するようになりました。 征夷大将軍として活躍した人物には、源頼朝、足利尊氏、徳川家康などがいます。
朝廷(ちょうてい)は、日本の天皇が住んでいた場所を指します。江戸時代も、天皇は昔から住んでいた京都にいました。
幕府(ばくふ)は日本全体を管理するリーダー、藩(はん)は地方を治める小さな国のようなものです。江戸時代、幕府と藩が力を合わせて江戸時代の日本を治めていました。
江戸幕府の大名は全国に約260名いました。
武家諸法度は、江戸幕府が全国の大名に対して定めた法令で、大名の行動を取りしまり、反乱を起こさないようにするためのきまりでした。 「大名は領地と江戸を交互に務めなければならない(参勤交代)」「新しい城の建造は厳しく禁止する」、「大名は幕府の許可を得ずに勝手に結婚してはならない」などが定められました。 1615(元和元年)に第2代将軍徳川秀忠の名で徳川家康が13条を定めたものが始まりで、将軍の代がわりごとに発布されました。武家諸法度の主な目的は、徳川家の支配をより強め、幕藩体制を維持することでした。
朱印船貿易とは、江戸時代に幕府から渡航許可証である「朱印状」を得た船が東南アジアと行った貿易です。 豊臣秀吉の時代に本格的に始まり、徳川家康の時代に最盛期を迎えました。 海賊と正式な商人を区別するために、幕府が朱印状を発行しました。 朱印船は、シャム(タイ)、ルソン(フィリピン)など東南アジア各地に派遣されました。 銀、銅、刀剣、硫黄などを輸出、生糸、絹織物、綿布、スズ、皮革などを輸入しました。 朱印船貿易が発展すると、商人や浪人、キリシタンなどが東南アジアに移住し、日本人街が形成されました。
長崎県は、鎖国時代、唯一海外に通じていたため、西洋や中国などの影響を受けた独特の文化が育ちました。この文化は「和華蘭(わからん)文化」と呼ばれ、建物やグルメ、祭りなど、生活の中に今も残っています。
兵農分離とは、戦国時代末期から安土桃山時代にかけて行われた、武士と農民(百姓)の身分や地域上の差別です。豊臣秀吉の刀狩や太閤検地などの政策によって徹底され、江戸時代の武士と百姓・町人の身分制度の基礎が固められました。
天草四郎
天草四
天草四郎時貞
島原・天草一揆(島原の乱)は、1637年(寛永14年)10月下旬から翌1638年2月下旬にかけて、九州の島原半島南部と天草諸島のキリシタン農民が主体となり、幕藩権力に抗戦した一揆です。日本史上最大のキリスト教徒による反乱とも呼ばれています。 天草四郎は、5歳で大人顔負けの書をかいたとか、海の上を歩いて渡ったとか、病人の頭に手を置いて治したなど、数多くの伝説を残しています。
江戸時代の新田開発とは、原野や山林を開発して田畑や屋敷をつくったことをいいます。年貢の増収を目的として、奨励されました。 豊臣秀吉のころ約150万町歩(約10000k㎡)であった全国の耕地面積が、100年後の元禄のころには2倍近くの約300万町歩に増加しました。また、北海道を除く現在の耕地の形状をほぼ形づくりました。 その結果、米の生産性が大幅に上がり、人口も増加していきました。
関所(せきしょ)とは、交通の要所や国境に設置され、通行人や荷物を調べたり、通行税(関銭)を取ったりする場所です。 関所の役割は、大きく分けて次のとおりです。 ・戦時における防衛、通行人や物品の検査、 通行税(関銭)の徴収。 全国に53か所ありました。江戸幕府は江戸の防衛のために関所を置き、旅人を監視しました。通行手形がなければ通過することができず、「入鉄砲に出女」を特に厳しく取り締まりました。関所は1869(明治2年)に廃止されました。
江戸時代、三都とは江戸、大坂、京都の3つの都市を指し、当時の日本の最大級の都市でした。それぞれの特徴は次のとおりです。 江戸:政治の中心地で「将軍のお膝元」と呼ばれました。江戸幕府の将軍がいる江戸城があり、人口は100万人といわれていました。 大坂:商業の中心地で「天下の台所」と呼ばれました。人口は40万人くらいといわれており、多くの商人が集まっていました。 京都:文化の中心地で、朝廷・天皇・貴族の都市として政治的に重要な場所でした。西陣織・清水焼・京焼など、さまざまな伝統的手工業品を産出する手工業都市としても発展しました。
この仕組みではグループの中の人たちが協力して責任を持つことが大切で、一人がルールを破ると、グループ全体で責任を取らなければなりませんでした。たとえば、誰かが税金を払えない場合、他の人が助けて全員で払うようにしました。
絵踏み
絵踏
えぶみ
絵ぶみ
絵踏みはキリスト教禁止のために行われました。
大阪
大坂
次の理由から、大阪は「天下の台所」と呼ばれました。 ・諸藩の年貢米や産物が大阪の蔵屋敷に集められ、商人によって売りさばかれていたため ・米をお金に換えるにも大阪が最も有利だったため、多くの大名が年貢米を大阪に回送していたため ・商人の町であったこと、交通の要地に位置していたため
老中(ろうじゅう)は、江戸幕府で政務全般を統括する最高職で、大老に次ぐ位の高い職でした。老中の主な役割は、①朝廷や大名・寺社の統制、②財政、③大規模な建築工事、 ④外交など公儀面の職務です。老中は、2万5000石以上の石高を持つ譜代大名の中から選任され、複数名が月番制で政務を執りました。老中のなかでも、最も格上の「首座」(しゅざ)は、今日で言う首相に該当しました。