問題 1
OX
安土桃山時代は徳川家康が幕府を開くまでの時代を指します。
安土桃山時代は、織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた時代で、室町時代後期や戦国時代とも重なります。一般的には1573(天正元)年から1603年(慶長8年)までの約30年間を指します。

安土桃山時代は、織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた時代で、室町時代後期や戦国時代とも重なります。一般的には1573(天正元)年から1603年(慶長8年)までの約30年間を指します。
キリスト教が日本に伝わったのは、1549年にスペインの宣教師であるフランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着したときです。
桶狭間の戦いは、1560年に尾張国(現在の愛知県)の桶狭間で、織田信長と今川義元が戦った合戦です。 織田信長は、3,000の兵で今川義元の3万の軍勢に奇襲し、勝利しました。今川義元は京都へ上洛して室町幕府の政権を掌握することを目指していました。織田信長は、この戦いで大きな力を持っていた今川義元を破り、勢力を広げていきました。この戦いは信長の全国統一のきっかけとなりました。
長篠の戦い
(ながしののたたかい)
正解:長篠の戦い(ながしののたたかい) ヒント: 織田信長が鉄砲隊をたくさん使いました。 戦った相手は武田勝頼(たけだかつより)という武将です。 愛知県と長野県の境目あたり(長篠)で行われました。
織田信長は、新しい政治を行おうとした武将です。そのため、古くから権力と結びついて力を持っていた仏教寺院を敵と見なすことがありました。 また、『一向一揆(いっこういっき)』とも対立しました。一揆(いっき)とは、武器を持った人々が集まって起こす戦いのこと、一向一揆は浄土真宗の信者たちが起こした一揆です。
信長は「楽市楽座」によって、それまで商人たちが払わなければならなかった税を免除し、だれでも自由に商売できるようにしました。「楽」とは、ここでは「自由」という意味です。 「楽市楽座」によって、町はにぎわいました。 また、これによって信長は、商人たちを味方につけることができるようになりました。
安土城は、織田信長が天下統一の拠点として築いた城です。 ・高石垣、金箔瓦、天守を兼ね備えた日本初の近世城郭とされています。 ・天主の内部は漆や金箔で装飾され、襖や天井には狩野派などの絵師の作品が飾られていたと考えられます。 ・城下町には家臣を住まわせ、取引が自由な市を設けて経済の発展を図りました。 安土城は、滋賀県安土山に位置し、J1576年に着工し、約3年後の1579年に完成しました。しかし、1582年に本能寺の変で信長が倒れた後、明智光秀が率いる明智勢に接収され、織田信長の次男である織田信雄によって焼失してしまいました。現在は石垣などの一部が残るのみです。
足利義昭
義昭
足利義◯(あしかが よし◯◯)は、室町幕府の第15代で最後の征夷大将軍です。12代将軍義晴の子で、兄の義輝が暗殺された後、室町幕府の復興を目指しました。 足利義昭(あしかが よしあき)は、勢力を伸ばしていた織田信長の力を借りて、1568年に京都へ入り、征夷大将軍となりました。しかし、織田信長と不和が生じ、1573年に追放されました。
大阪は、日本最大の都市だった京都と、日本最大の港町だった堺に近く、淀川水運と瀬戸内海水運を結ぶ地点にあるため、物資を運ぶ中継地として、将来発展する見こみが大いにある土地でした。そのため、1532年に本願寺の本拠地になると町ができ、商業が発達して、経済の中心地になりました。豊臣秀吉も、発展する見こみがある大阪に、自分の城をつくり、城下町を整備して、天下を治める本拠地にしたのです。
太閤検地
豊臣秀吉(当時「太閤」という役職についていました)が、農民たちの田んぼや畑の面積を調べました。この政策で、税金の取り方が分かりやすくなりました。京枡(きょうます)を、全国統一の公定枡として使いました。 「検地(けんち)」は土地を調べるという意味です。
刀狩(かたながり)とは、豊臣秀吉が1588年に実施した、農民や僧侶などの武士以外の身分から刀や槍、鉄砲などの武器を取り立てる政策です。主な目的は、①一揆の発生を抑える、②兵農分離を進める、③身分を固定化して農民を農業に専念させること、です。 集めた刀や脇差は、京都・東山での大仏建立で釘や鎹(かすがい)に使うと説明されました。
朝鮮
ちょうせん
李氏朝鮮
文禄の役と慶長の役は、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した戦争です。文禄の役は1592年(文禄元年)から始まり、慶長の役は1597年(慶長2年)に始まりました。 文禄の役は、天下統一を果たした秀吉が、新たな領地を獲得するために朝鮮に出兵した戦争です。秀吉は、朝鮮に日本に服従し、日本軍を明まで案内し、ともに明と戦うよう申し入れましたが、朝鮮はこれを拒否しました。そのため、秀吉は1592年に朝鮮に出兵しました。 慶長の役は、文禄の役で明と和議を約した後に、明使の渡来と朝鮮王子の来朝を求めた秀吉が、明使のもたらした表文の無礼を怒って、ふたたび朝鮮に出兵した戦争です。
桃山文化の担い手は、新興大名や京都、大阪、堺、博多の豪商らです。彼らの好みや性格を反映して、次のような特徴を示しています: ・雄大で豪華な文化 ・仏教文化の色合いが薄れ、人間中心の傾向が生まれた ・南蛮文化の影響も受け、庶民の文化が広まった
出雲阿国(いずものおくに)は、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した、歌舞伎の始祖といわれる女性芸能人です。 出雲大社の巫女であったと伝えられていますが、京都に来るまでの経歴は不明です。1603年(慶長8年)に京都で念仏踊りを演じ、大人気になりました。奇抜な格好をして踊る「かぶき踊り」を考案し、突飛な演技で都の人々の心をわしづかみにし、阿国歌舞伎と呼ばれる踊りを広めました。これが後々、現在の「歌舞伎」へと形を変えていったと考えられます。
千利休(せんのりきゅう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した茶人で、茶道(ちゃどう)の大成者、千家流茶道の開祖として知られています。利休は、織田信長、豊臣秀吉に茶頭として仕え、さまざまな茶会で茶を立てたと言われています。極限まで無駄を省く「わび茶」という茶の湯の一様式を追求・完成させたました。 千利休は、茶道を通じて織田信長や豊臣秀吉の側近となり、政治的影響力を持った人物としても有名です。しかし、豊臣秀吉の怒りにふれて切腹させられました。切腹の理由については定説はありませんが、大徳寺に自像を置いたためなどとされています。