問題 1
短答式
最初の武士が現れたのは、◯◯時代の終わりです。
◯◯に入る、漢字2文字は何ですか?
平安
武士は、10世紀から12世紀にかけて、治安の不安や土地の私有の広がりなどによって現れました。

平安
武士は、10世紀から12世紀にかけて、治安の不安や土地の私有の広がりなどによって現れました。
壇ノ浦の戦いは、1185年(元暦2年)3月24日に現在の山口県下関市と福岡県北九州市の間にある壇ノ浦で起きた、源氏と平氏の海戦です。源平合戦の最終戦で、源氏が勝利して平氏が滅亡しました。
日宋貿易では、中国の優れた文化や技術が日本に伝わりました。特に、中国のお茶を楽しむ文化や、丈夫で美しいお皿やお茶碗が人気でした。
厳島神社
厳島
広島県にある厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、美しい海に浮かぶ神社として有名です。この神社は昔から、航海や漁業の神様をまつる大切な場所でした。 平安時代の終わりごろ、平清盛(たいらのきよもり)は、厳島神社をとても大事にしました。清盛は、武士として力を持ち、やがて日本の政治を動かすようになった人物です。彼は厳島神社を守り、立派に修復することで、神様の力を借りたいと考えました。また、厳島神社を信仰することで、全国の人々の心をつかもうともしたのです。 さらに、清盛は厳島神社を拠点にして、日宋貿易(日本と中国の宋との貿易)を進めました。この貿易によって多くの財産を得て、平家の力を強めたのです。
源義朝(みなもとのよしとも)は、平安時代末期の武将で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の父です。 保元の乱(1156年)では後白河天皇に味方して父や弟たちとたたかい、手がらを立てました。しかしその後は平清盛の勢いにおされてふるわず、平治の乱(1159年)をおこして清盛をたおそうとしたが負けました。東国へにげる途中,尾張国(今の愛知県)でころされました。
征夷
平安時代の終わりごろ、日本では平氏(平清盛の一族)が政治の実権を握り、とても強い力を持っていました。しかし、そのやり方に不満を持つ人々も多くいました。その中で、源頼朝(みなもとのよりとも)は平氏を倒すために立ち上がった武士の一人です。 頼朝は圧倒的なリーダーシップで源氏・東国御家人をまとめ上げ、「平家滅亡」を成し遂げました。 1192年に征夷大将軍(将軍)に任ぜられ、鎌倉に将軍の役所である幕府を開きました。
鎌倉時代には鎌倉が幕府の所在地であり、政治の中心地でした。 政治の中心地が鎌倉だったため、「鎌倉時代」と呼びます。
武士道(ぶしどう)とは、昔の日本の武士たちが大切にしていた生き方や考え方のことです。武士たちは、戦いの中で自分の力を発揮しながらも、人として守るべき大切な心構えを持っていました。 武士道の中で大事にされたことには、次のようなものがあります: 正義、勇気、礼儀、誠実、忠義 武士たちは、自分の名誉(めいよ)をとても大切にしました。どんなに強い武士でも、ずるいことをしたり、恥ずかしいことをしたりすれば、その名誉を失うと考えたのです。そのため、命よりも名誉を守ることを重んじる武士もいました。
栄西
栄西は、延暦寺で天台宗を学びました。しかし満足できず、二度宋(そう:いまの中国)にわたって禅宗を学び,臨済宗(りんざいしゅう)を日本に伝えました。
義経がまだ子どもだったころ、父である源義朝(みなもとのよしとも)が平清盛に倒され、一族は大きな危機にさらされました。そのため、義経は母とも離れ離れになり、京都の鞍馬寺(くらまでら)に預けられることになったのです。 鞍馬寺で過ごした義経は、山の中で修行をしながら成長しました。お寺で仏教の教えを学びつつ、剣術や武術にも励んだと言われています。また、義経に関する伝説では、鞍馬山に住む天狗(てんぐ)から武術を教わり、強くなったとも語られています。このような修行が、後に義経が活躍するための力のもとになったと考えられています。
源氏の将軍は3代で途絶えました。その後、将軍を助けながら実際に幕府を動かしていたのが「執権(しっけん)」と呼ばれる役職の人たちです。 執権の仕事は、幕府でのいろいろな決まりごとを決めたり、裁判をしたりして、武士たちをまとめることでした。執権の役目を引き継いでいったのは、北条氏(ほうじょうし)という一族でした。 有名な執権には、北条泰時(ほうじょうやすとき)がいます。彼は「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」という、武士の社会を治めるためのルールをつりました。 執権は実際には、幕府の中心となって日本を治めていました。だから、鎌倉時代の後半は「執権政治(しっけんせいじ)」と呼ばれることもあります。
北条氏
北条
執権は、将軍を助ける役目をしていました。この仕事を代々受け継いだのは、北○氏という一族です。 この一族は、源頼朝の正室で源頼家・源実朝の母北条政子の実家です。
御成敗式目は、1232年に3代執権北条泰時が定めた武士のための最初の法律です。
このルールは、執権の北条泰時(ほうじょうやすとき)が作りました。武士の社会をきちんと治めるための法律です。
承久
承久の乱は、1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒すために起こした反乱です。 源頼朝が亡くなり、息子の頼家、実朝が暗殺され、将軍が途絶えました。後鳥羽上皇はこれを、鎌倉幕府を倒すチャンスだと考え、北条氏の政治に不満を持つ武士や僧兵を集めて、幕府を討とうとしました。しかし、北条政子が「頼朝様の御恩に今こそ報いるべきだ」と御家人たちに訴えかけ、結束を固めた幕府軍が勝利しました。敗れた後鳥羽上皇は隠岐に流され、幕府は京都に六波羅探題という役所を設置しました。 六波羅探題は朝廷の監視や西日本を支配する役割を果たし、鎌倉幕府の支配はより一層強固となりました。
法然
法然は、「心をこめて念仏をとなえればだれでもすくわれて浄土に行くことができる」と説きました。
文永の役は、1274年にモンゴル(元)と高麗(こうらい)の軍が日本に侵攻した事件です。 高麗を征服したモンゴルは、1268年以降、モンゴル・高麗の使者を日本に派遣して服属を要求しましたが、鎌倉幕府は拒絶しました。 1274年10月3日に高麗を出発した2万5千の元軍(蒙古軍・高麗軍)を乗せた900隻の船団は、10月5日に対馬を襲い、14日に壱岐へと侵攻しました。日本軍はなんとか元軍を撃退に成功しました。
鎌倉・室町時代に、幕府がある期間の売買や貸し借りの契約を無効にさせるために出した法令が徳政令です。鎌倉時代,御家人の生活苦を救うために、永仁の徳政令(1297年)が出され、御家人の生活苦は一時的に改善されましたが、御家人でない者は大きな損害そんがいをこうむったのです。
商業の発展により、貨幣が交易で利用されるようになりました。その結果、経済全体が活性化しはじめました。