問題 1
短答式
6世紀後半から710年に平城京に都が遷るまでの時代を何時代と呼びますか?
(漢字2文字 「〇〇時代」)
飛鳥
飛鳥時代
この時代の名前は、当時の政治の中心地の名前に由来しています。 この中心地の名前の由来については、いくつか説があります。 その中の一つに、歌をつくるときに使っていた「とぶとりの(飛ぶ鳥の)」という枕詞が地名になった、という説があります。

飛鳥
飛鳥時代
この時代の名前は、当時の政治の中心地の名前に由来しています。 この中心地の名前の由来については、いくつか説があります。 その中の一つに、歌をつくるときに使っていた「とぶとりの(飛ぶ鳥の)」という枕詞が地名になった、という説があります。
推古天皇は、聖徳太子(しょうとくたいし)と一緒に日本の歴史を大きく変える仕事をしました。推古天皇は、当時、中国や朝鮮から伝わった新しい宗教だった仏教の受け入れを進め、仏教の寺や仏像をつくることを支援しました。聖徳太子が行った、冠位十二階(かんいじゅうにかい)や、十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)というルール作りも支援しました。
憲法十七条
十七条憲法
十七条の憲法
日本で初めての憲法として知られています。 この憲法は17の項目からできています。 この憲法には、「和をもって貴しとなす」(みんな仲良くすること)という有名な言葉が書かれています。 名前には「条」という言葉が含まれています。
法隆寺
法隆
日本で「法(仏教)をさかん(隆)にしたい」、という聖徳太子の気持ちが読み取れる名前です。
冠位十二階
603年、聖徳太子が定めた<位><階>の制度。<12>種の位をつくり、それを<冠>の色によって区別し、家柄ではなく、個の能力や功労に応じて位をあたえました。
小野妹子、遣隋使
小野妹子,遣隋使
小野妹、遣隋
小野妹,遣隋
遣隋使(けんずいし)とは、聖徳太子が中国の隋(ずい)に派遣した使節で、日本の新しい国づくりに役立つ知識や技術、学問などを持ち帰りました。 目的は、①中国の制度や文化を学ぶ、②隋と対等の外交関係を築く、③朝鮮半島に対する日本の立場を有利にする、でした。 遣隋使は、600年から614年まで数回派遣されましたが、607年に<小野妹子(おののいもこ)>が派遣された使節が最も知られています。小野妹子が隋の皇帝に贈った手紙には、日本と隋は対等だという内容が込められていました。しかし、隋の皇帝は「無礼だ!」と怒り、正式な使者を日本に送り、日本と隋の交流が始まりました。
百済
660年百済は、新羅・唐の連合軍に攻せめられてほろびました。このとき大和政権は、百済復興のために大軍を送り、白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗しました。 また百済は、仏教がさかんで、僧や技術者など多くの人が、日本に渡来しました。
唐(とう)は、618年から907年まで続いた大きな王朝で、その時代の中国は、世界でも強い国の一つとして知られていました。 唐は、最盛期には中国の周りの国々と貿易や文化の交流をしながら、とても栄えました。強い軍隊を持っていて、周りの国と戦い、広い土地を支配しました。唐の時代には、中央アジアや東南アジアまで領土が広がりました。
中大兄皇子
中大兄
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、後の天智天皇で、天皇中心の政治を行うためにさまざまな改革を行った人物です。 645年に中臣鎌足らと蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼし、天皇中心の国内統一を目指しました。この変は「乙巳(いっし)の変」と呼ばれています。 646年に「改新の詔(みことのり)」により、公地公民、地方の治めるしくみの整備、班田収受の法、新しい税制(租庸調など)などの改革に着手しました。唐や新羅の侵略に備えて都を近江大津宮に移し、668年に天智天皇として即位しました。
大化の改新は、乙巳の変の後、645年に中大兄皇子と中臣鎌足らが始めた政治改革です。 天皇の権力を強めるために、土地や人民を天皇に属するものとする「公地公民」が導入されました。 税制や官職の整備が行われました。 中国の文化や制度を取り入れ、中国の漢字を使った公文書の作成や、中国の官僚制度の導入などが行われました。 都が定められ、畿内や国司、郡司、関所、斥候、防人、駅伝制などの制度が導入されました。 日本初の元号「大化」が制定されました。
公地公民(こうちこうみん)は、土地と人民を国家(天皇)が直接支配し、私有を認めない制度です。大化の改新の際に示され、天皇を中心とする国づくりが進められる中で実施されました。 ・皇室や豪族が私有していた土地や人民を中央政府が支配する ・私有地や私有民は禁止される ・人民には国家から口分田が与えられ、代わりに租税を支払う義務を負う ・土地は個人が所有しているのではなく、国から貸しているという扱いになる ・借りている人が亡くなったら、国がまた別の人に貸すという方式が採用される 公地公民の原則は、奈良時代中期に政府が開墾を奨励し、開墾した土地の所有を認めたことで崩れていきました。
中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、中大兄皇子といっしょに「大化の改新」を推し進めました。 中臣鎌足は、代々神事や祭祀を司る豪族の家に生まれ、幼い頃から学問に通じていました。中大兄皇子との出会いは、飛鳥寺の蹴鞠(けまり)の場で、中臣鎌足が中大兄皇子の靴を拾って捧げたことがきっかけでした。2人は蘇我氏に知られないように、学問僧の塾に通いながら蘇我氏打倒を計画しました。 大化の改新で、内臣に任じられて律令体制の基礎を築きました。天智天皇(即位した後の中大兄皇子の呼び名)の死の直前には、大織冠(たいしょくかん)という最高の冠位と「藤原」という姓をもらいました。
白村江の戦いは、663年に朝鮮半島南西部の白村江(現在のクム川河口)で日本と唐・新羅の連合軍が戦った海戦です。日本は百済を助けるために軍を進めましたが、大敗し、百済は滅亡しました。 ・百済は唐と新羅に攻略され、国を再び興そうと日本に援助を要請しました。 ・日本は百済を助けるため、662年から663年に2万7000人あまりの兵を朝鮮半島に送りました。 ・日本は唐・新羅の水軍に敗れ、引き上げることになりました。 ・中大兄皇子は敗戦をきっかけに朝鮮半島進出をあきらめ、都を近江(現在の滋賀県)に移し、天智天皇として即位し、国内の整備に努めることになります。
壬申の乱は、672年に天智天皇の後継をめぐって起こった内乱です。 当時の皇位継承は親子より兄弟が優先されていましたが、天智天皇は個人的な愛情により、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)ではなく、息子の大友皇子(おおとものみこ、後に「弘文天皇」とも呼ばれます)への皇位継承の意を表しました。そこで大友皇子は天皇の座に就こうとしましたが、大海人皇子はそれに反対しました。そして大海人皇子は自分を支持する兵士たちを集めて、大友皇子と戦うことを決意します。戦いは激しいものでしたが、大海人皇子が勝利しました。そして彼は「天武天皇(てんむてんのう)」として即位しました。
持統天皇は天智天皇の娘です。天武天皇の皇后として政治を行いました。 夫・天武天皇と息子・草壁皇子(くさかべのおうじ)が亡くなった後、690年に即位しました。 律令を制定し、戸籍を整備し、藤原京を造営するなど、政治の礎を築きました。 701年に制定された大宝律令は、刑罰に関する「律」と行政組織や租税・労役に関する「令」が揃った、我が国初の本格的な法典でした。 藤原京は、耳成山・畝傍山・天香具山の「大和三山」が形作る三角形の真ん中に造営されました。
遣唐使(けんとうし)は、7~9世紀に日本から中国の唐に派遣された使節団です。 遣唐使の目的: ・唐との友好を保つ ・唐の政治のしくみや文化を取り入れる ・東アジアの情報を得る 遣唐使は、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)の派遣を皮切りに、894年に菅原道真の提案によって廃止されるまで十数回派遣されました。 遣唐使によって日本にもたらされたものには、茶、薬、仏教の経典、 国のしくみや法律などがあります。 また、奈良の平城京や京都の平安京なども、唐を手本にしてつくられました。遣唐使として渡った有名な人物には、阿倍仲麻呂、吉備真備、玄ぼう、山上憶良、最澄、空海などがいます。
大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年に制定された法律で、天皇を中心とした中央集権国家の体制を確立することを目的としていました。刑法にあたる「律」と、行政法・民法にあたる「令」で構成されています。 ・統治システム:都を「二官八省」に分け、貴族たちに役職を与えました。 ・土地制度:天皇や豪族が持っていた土地や人民をすべて国家のものとする「公地公民」や、戸籍をつくり、6歳以上の男女に口分田を与える「班田収授法」などが正式なルールとなりました。 ・税税制:収穫した「稲」の約3%を国司に納める「租」、都で働く代わりに「布」を都へ納める「庸」、地方の特産物を都へ納める「調」などがありました。
調