問題 1
選択式
794年に都を平安京に移した天皇はだれですか?
- 安徳天皇
- 桓武天皇
- 花園天皇

藤原氏は代々、娘を天皇と結婚させ、その子どもを天皇に立てて、天皇の外戚(がいせき:母方のしんせき)となり、皇室との関係を深め、他の有力な貴族をしりぞけ、政治の実権をにぎりました。藤原氏は天皇が幼ないときは<摂政>、成人のときは<関白>となり、天皇に代わって政治を行いました。
ひらがな
ひら仮名
かな文字
平仮名
この文字は、元々は漢字を簡単に崩して書かれたものです。平安時代の貴族の間で、特に女性が使う手紙や日記に使われていました。今でも日本語の文章でたくさん使われています。特に、助詞や接続詞などにこの文字がよく使われます。 この文字は柔らかい曲線を持っているのが特徴です。
平安時代から鎌倉時代にかけて,日本と宋(そう:いまの中国にあった国)との間に行われた貿易。12世紀後半、平清盛は貿易の利益に注目して、大輪田泊(おおわだのとまり:今の神戸港)を修築するなど、積極的な努力をしました。日本からは金・銀・硫黄(いおう)・刀剣などが輸出され、宋からは大量の宋銭、書物・織物・香料・薬などが輸入されました。
平将門(?〜940)は、平安時代の関東の豪族で、武将でした。下総(しもうさ:今の千葉県北部を中心とする地域)、常陸(ひたち:今の茨城いばらき県)に広がった、平氏一族の争いが関東のいくつかの地域を巻きこんで大きな争いが起きる中で勢力を伸ばしていきました。939年、常陸・下野(しもつけ:今の栃木県)・上野(こうずけ:群馬県)の国府を攻めおとしたことから、将門の行動は「朝廷への反乱」となり、将門は自らを「新皇」と称して,岩井(いわい:現在の茨城県坂東市)に政庁を置きました。しかしその勢いは長くは続かず、翌年、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)・平貞盛(たいらのさだもり)たちにほろぼされました。これを「平
武士団
ぶしだん
地域の有力者を中心にまとまった武士の集団。地方の豪族が家子(いえのこ)・郎党(ろうとう)などのリーダーとなり、小さな武士団が形成され、それらがさらにまとまって、大きな武士団が成立しました。大きな武士団のリーダーはは「棟梁(とうりょう)」と呼ばれました。 武士団ぶしだんの中で最も勢力を持ったのが、「源氏」と「平氏」です。
壇ノ浦の戦い
平治の乱
平治
へいじ
この争いは、1159(平治1)年に京都で起きました。保元の乱のあと、平清盛と源義朝(みなもとのよしとも)の勢力争いに、院の近臣らの争いがからんで戦乱に発展しました。清盛が勝ち、義朝は殺され、その子頼朝は伊豆(今の静岡県)に流されました。その結果、源氏は力をなくし、平氏が政治の実権をにぎりました。 このできごとを、「平治の乱」と呼びます。
浄土信仰
上皇
天皇が位をゆずって上皇や法皇になってからも政治の実権をにぎって行った政治を「院政」と呼びます。1086年、白河上皇(しらかわじょうこう)が行ったのがはじまりです。その結果、政治の中心は院にうつり,摂関政治せはおとろえていきました。
藤原純友