問題 1
短答式
6世紀に渡来人と協力し、他の豪族をおさえて大きな力を持った一族は何という名前ですか?
(漢字3文字 「〇〇氏」)
蘇我氏
蘇我
そが
そがし
名前の最初の音は「そ」です。「馬子」や「蝦夷(えみし)」という名前の人が代表的な人物です。

蘇我氏
蘇我
そが
そがし
名前の最初の音は「そ」です。「馬子」や「蝦夷(えみし)」という名前の人が代表的な人物です。
推古天皇
推古
すいこ
すいこ天皇
すいこてんのう
推古天皇は、摂政(せっしょう)の聖徳太子と協力して政治を行い、日本に仏教を広めたり、新しい政治のルールを作ったりしました。
摂政という言葉には「支える」という意味が含まれています。 摂政は、現代でいうと「代理人」や「サポート役」のような仕事です。 天皇が成人して自分で政治を行えるようになると、摂政は必要なくなります。
聖徳太子
しょうとくたいし
聖徳太子は、推古天皇の摂政として、天皇の代わりに実際に政治を取りしきりました。例えば、冠位十二階(かんいじゅうにかい)や、十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)というルールを作り、人々がどう生活し、どう働くべきかを示しました。
十七条の憲法
十七条憲法
日本で初めての憲法として知られています。 この憲法は17の項目からできています。 この憲法には、「和をもって貴しとなす」(みんな仲良くすること)という有名な言葉が書かれています。 名前には「条」という言葉が含まれています。
階級は全部で12段階に分かれていました。 「冠位」という言葉は、役職や位階を表しています。
法隆寺
ほうりゅうじ
法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山で、世界最古の木造建築群として知られています。 聖徳太子が父である用明天皇の遺志を受けて、607年に建立されました。 中門を入って右に金堂、左に五重塔を配した伽藍配置が特徴で、一般的なお寺の配置と逆になっています。 釈迦三尊像や玉虫厨子など、多くの国宝や重要文化財を所蔵しています。 1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」名義で、日本で初めて世界文化遺産に登録されました。
遣隋使(けんずいし)とは、聖徳太子が中国の隋(ずい)に派遣した使節で、日本の新しい国づくりに役立つ知識や技術、学問などを持ち帰りました。目的は、①中国の制度や文化を学ぶ、②隋と対等の外交関係を築く、③朝鮮半島に対する日本の立場を有利にする、でした。遣隋使は、600年から614年まで数回派遣されましたが、607年に小野妹子(おののいもこ)が派遣された使節が最も知られています。小野妹子が隋の皇帝に贈った手紙には、日本と隋は対等だという内容が込められていました。しかし、隋の皇帝は「無礼だ!」と怒り、正式な使者を日本に送り、日本と隋の交流が始まりました。
現存する日本最古の歌集は、<『万葉集』>で、奈良時代末に完成したとされています。 天皇や貴族、農民など幅広い身分の人々の歌を詠み、東北から九州まで日本各地の土地が詠まれています。 力強く写実的な歌が多く、素朴で健康な古代の歌風が特徴です。歌は、日本語を漢字で表記した万葉仮名で書かれています。 歌の形式には長歌・短歌・旋頭歌などがあり、相聞歌・挽歌・雑歌の3部に分類されます。
大化の改新は、西暦645年に中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を倒して行った政治改革です。 大化の改新では、土地や人民を天皇に属するものとする「公地公民制」が導入されました。 豪族は朝廷の役人となり、官位や位階に合わせた報酬が与えられました。 中国の文化や制度を取り入れ、中国の漢字を使った公文書や官僚制度が導入されました。 都を定め、畿内や国司、郡司、関所などの制度が導入されました。 戸籍や計帳が作製され、班田収授法が実施されました。 租・庸・調などによる統一的な税制が実施されました。
大宝律令
大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年に制定された日本初の完備した法律で、天皇を中心とした中央集権国家の体制を確立することを目的としていました。大宝律令の内容は、刑法にあたる「律」と、行政法・民法にあたる「令」で構成されており、律6巻、令11巻の全17巻からなっています。
律令国家とは、律令制度に基づいて支配された古代の統一国家です。律令制度とは、律と令という法律に基づいて国を治める制度で、律令によって治められた国家を律令国家といいます。 律令制度は、中国の隋・唐の時代に完成され、日本では大化の改革(645年)後、大宝律令の制定(701年)によって完成しました。大宝律令は、中大兄皇子と中臣鎌足が目指していた「天皇中心の政治」を実現するために制定されました。
国分寺, 国分尼寺
国分寺、国分尼寺
班田収授法は、土地(田)を配る(班給する)仕組みでした。 土地は農民に「貸し出されるもの」でした。この制度では、使い終わった土地は次の人に割り当てるしくみです。 天皇のもとで土地を管理し、公地公民を徹底するための制度です。 農民が勝手に土地を相続することを防ぐためのしくみでした。 4. 背景に関するヒント 班田収授法は、6歳以上の人に土地を与える制度でした。 一度配られた土地は、農民が亡くなったりした場合、国に返されました。 5. 具体的な出来事に関す
645年の「大化の改新」で始まった制度です。中国の「唐(とう)」の政治を参考にしました。 「土地(公地)」と「人々(公民)」を国が管理する仕組みです。今まで土地や農民は豪族(地方の有力者)が支配していましたが、これを国が直接管理しました。 この制度によって、天皇中心の政治が強化されました。